毎年夏になると自宅の書斎で、自分が作ったものがたりを語る会をしている。
自宅のある山梨県の小淵沢は高原で涼しいし、参加自由だし、というわけで大勢の大人や子どもが連日来てくれる。
去年の夏のこと。近くの別荘からおばあさんといっしょにしょっちゅう通ってくる小二の男の子がいた。とてもお話好きらしい。だから、その子が来ると、ぼくも考えて、初めての話をするようにしていた。
ところが、それが重なるとだんだんこちらも手持ちの話がなくなってくる。ないわけではないけれど、今年の新作は限られているし、他の人にも新作を 聞いてもらいたい。 「…1…」、来てくれた人を見渡して、その男の子にだけもう一度同じ話を聞くことを我慢してもらえば、他の人におもしろい話ができることに気がついた。\
そこで、彼には悪いなあと思いつつ、「八ヶ岳の霧という話をします」ときりだした。 すると、男の子は顔面をくしゃくしゃにして、「…2…」。「これがおもしろいんだ!」 そのとたんにぼくは悟った。ぼくは彼を見くびっていた。
同じ話をして、「…3…」。お話を聞き慣れていない子は知っている話にぶつかったとき、「あ、それ、知ってる!」という言い方で終わりにする。
あらすじを知ることがお話を知ることだと思い、すべてを消費していくだけなのだ。 でも、「…4…」は違った。お話で大切なのはあらすじではない。
あのいいまわし、あの呼吸、あのどきどき感、あのばかばかしさ。それを何度でも味わうことなのだ。だから落語好きは知っている話を聞くために何度でも寄席に通う。 あとから同じ道を歩いてくる、いい仲間に「…5…」。